三菱の成立と変遷:九十九商会から三菱合資会社、財閥解体まで

企業・組織

基本情報
対象三菱(三菱商会〜郵便汽船三菱会社〜三菱社〜三菱合資会社〜三菱本社、戦前の三菱財閥)
創業者岩崎弥太郎
前身九十九商会(土佐藩の大阪での事業を引き継ぐ。1870年設立)
主な社名の変遷九十九商会→三川商会(1872)→三菱商会(1873)→三菱汽船会社(1874)→郵便汽船三菱会社(1875)→三菱社(1885〜86年ごろ)→三菱合資会社(1893)→株式会社三菱社(1937)→三菱本社(1943)
歴代社長岩崎弥太郎、岩崎弥之助、岩崎久彌、岩崎小彌太(三菱側の年表の代数による)
主な事業海運、鉱山・炭坑、造船、銀行、商事、倉庫、地所など
解散三菱本社は1946年に解散・清算に入る(解散日を1946年9月30日とする説明がある)
後継三菱グループ(金曜会を中心とする企業集団)。三菱商事は1954年に再合同

三菱は、1870年に土佐藩の事業を引き継いだ九十九商会に始まり、海運会社、鉱山・造船を担う三菱社、岩崎家二家の出資による三菱合資会社を経て、戦前の大財閥となった。本稿は、社名と組織の変遷、海運事業が日本郵船へ移った経緯、分系会社への分離、戦後の解体と再結集を、資料で確認できる範囲で順に述べる。出典によって年や月が異なる箇所は、その旨を明記する。

九十九商会から三菱商会まで(1870〜1873年)

九十九商会の成立

三菱の起点は、土佐藩の大阪での事業にある。安芸市の紹介では、岩崎弥太郎は1866年に土佐藩直営の開成館に登用され、翌年に長崎の開成館出張所(長崎土佐商会)へ派遣された。長崎土佐商会は樟脳・和紙・鰹節などを輸出し、その利益で軍艦や武器を購入したという。商会は1868年に閉鎖され、弥太郎は1869年に大阪の土佐商会へ移った。[17]

1870年(明治3年)、大阪土佐商会を藩営から切り離した商社として九十九商会が設立され、弥太郎が責任者となった。翌1871年に、弥太郎は九十九商会の経営を引き受けた。[17] 三菱側の年表は、1870年に土佐藩の事業を継承して九十九商会を設立し、弥太郎が指揮監督に当たったとする。1871年の廃藩置県で土佐藩は高知県となり、九十九商会は純民営になったという。[1]

設立の時期には説明の違いがある。日本大百科全書の「九十九商会」の項は、1870年閏10月に上京した弥太郎が土佐開成商社をつくったが、これは名前だけの商社だったとする。同項は、同月18日にあらためて九十九商会として通商司から廻漕業の許可を得たとも述べる。[2] 三菱自動車の沿革ページは「1870年(明治3年)10月」に九十九商会として土佐藩営の海運事業を継承したと書き、船旗号の三角菱が使われ始めたのもこの時とする。[21] 月の表記は出典間で異なり、本稿では「1870年(閏10月とする説明がある)」にとどめる。[2][21]

三川商会、三菱商会への改称

九十九商会は1872年に三川商会と改称し、1873年に三菱商会へ改称して、弥太郎が社主になったと三菱側の年表は記す。[1] 日本大百科全書も、1873年に弥太郎個人の会社である三菱商会になったとする。[3] 三菱の名の由来について、日本大百科全書は、土佐藩主山内家と岩崎家の家紋を組み合わせたといわれる社章の「三菱」を社名にしたと述べる。他の財閥が創業家の家名で呼ばれたのと比べて、これは一つの特徴だと同項は指摘する。[10] 三菱自動車の沿革ページも、三菱マークの原型を1870年の船旗号の三角菱とし、岩崎家の「重ね三階菱」と山内家の「三ツ柏」に由来すると言われていると記す。「言われている」という表現が示すとおり、これは通説であり、確定した記録ではない。[21]

この時期の事業は海運が中心だった。ただし三菱側の年表には、1871年に紀州新宮藩の炭鉱を租借して鉱業部門に進出し、1873年に岡山県の吉岡鉱山を買収した、という項目もある。吉岡鉱山は、年表が三菱の金属鉱山経営の始めとする事業である。[1] 海運から出発しつつ、早い段階で鉱業にも手を広げていたことがわかる。

郵便汽船三菱会社の時代(1874〜1885年)

本拠の東京移転と台湾出兵

1874年4月、三菱商会は本店を大阪から東京へ移し、同年7月に三菱汽船会社(三菱蒸汽船会社とも称した)と改称した。[6] アジア歴史資料センターの解説によれば、同年7月の台湾出兵で三菱は軍事輸送を受命した。1875年2月には上海航路を開設している。[4] 日本郵船歴史博物館の解説も、征台の役で兵員輸送に応じて政府の信用を得たと述べる。1875年には政府命令で日本初の外国定期航路となる横浜〜上海航路を開設し、すでに同航路を開いていた米国のパシフィック・メール社を競争の末に撤退させたとする。[5]

日本国郵便蒸気船会社の吸収

背景には、政府の海運育成策がある。日本郵船歴史博物館の解説では、欧米の船会社に沿岸輸送を握られつつあることに危機感を持った政府が、1872年に日本国郵便蒸気船会社を設立した。民間では弥太郎の事業がこれに対抗していた。[5] 1875年、三菱は政府の保護下にあった日本国郵便蒸気船会社の人員・施設を吸収した。社名は9月15日付で郵便汽船三菱会社と改称された。[1][6]

アジア歴史資料センターの解説は、郵便蒸気船会社が三菱との競争に敗れて解散し、その所有汽船15隻の無償貸し下げが政府から三菱に行われたとする。西南戦争では政府借用金を基に汽船8隻を購入したとも述べる。[4] 日本大百科全書は、佐賀の乱、台湾出兵、西南戦争で軍事輸送に従事し、特権を得て海運企業として成長したと整理している。[3]

事業の多角化

海運と並行して、三菱は他の事業を取り込んだ。三菱側の年表によれば、1874年には上海のボイド商会と折半出資で横浜に船舶修理工場として三菱製鉄所を開いた(外国資本との提携の始めとされる)。1881年には長崎県の高島炭坑を買収し、経営した。[1]

共同運輸会社との競争と日本郵船の設立

三菱の海運独占への批判は強まった。三菱側の連載は、政府が三菱に対抗しうる海運会社の設立をもくろんだと伝える。三菱への経営監督を強める第三命令書が交付され、海上運送に専念して商品売買をしないこと、払い下げ代金を全納するまで船を質入れ・売却しないこと、修繕の際は事前に政府へ届け出ることなどが定められたという。同連載は、大隈重信が三菱への助成を推進していたとし、明治14年の政変で大隈が罷免されたことも記す。いずれも三菱側の説明であることには注意が要る。[20]

共同運輸会社は1882年に設立された。渋沢栄一、井上馨、品川弥二郎、益田孝、榎本武揚、浅野総一郎らが三菱に対抗できる会社の設立を画策して生まれたと、百科事典的な解説は記す。東京風帆船会社・北海道運輸会社・越中風帆船会社の3社が結集したもので、有事の軍事輸送を引き受けることを条件に政府出資を得ており、社長は海軍少将の伊藤雋吉だった。[18] 設立日は、設立許可を1882年7月26日とし、発足を同年10月とする記述がある。日本郵船歴史博物館は、第一国立銀行頭取の渋沢栄一と三井物産社長の益田孝らが中心になったとする。[5][18]

両社の競争は激しく、アジア歴史資料センターの解説によれば、両社とも赤字となった。1885年9月に合併の話がまとまり、日本郵船会社が新たに設立された。[4] 日本大百科全書も、激烈な競争の末に1885年に2社が合併して日本郵船の設立に至ったとする。海運部門を切り離した三菱会社は三菱社と改称し、鉱山・造船業の経営に当たったとも述べる。[3] なお[18]のWikipedia記事は、共同運輸会社が三菱との合併で消えた時期を「1886年」と記す。出典間で合併の時期の表記が異なる。

三菱社と事業基盤の再編(1885〜1893年)

弥太郎の死と弥之助の就任

三菱側の年表では、1885年(年表上は1884年の項に併記される)に、初代社長の岩崎弥太郎が満50歳で死去し、副社長の岩崎弥之助が第2代社長に就任した。[1] 同年表は、1886年に弥之助が三菱社を設立し、海運以外の事業を経営したと記す。対象は吉岡鉱山、高島炭坑、長崎造船所、第百十九国立銀行、千川水道会社などである。[1] 一方、日本大百科全書は、1885年の日本郵船設立に際して海運部門を切り離した三菱会社が三菱社と改称したとする。[3] 年にずれがあるため、本稿は「1885〜86年ごろに、海運以外の事業を担う三菱社が成立した」と記す。

長崎造船所

1884年7月7日、弥太郎は工部省の長崎造船局を借り受け、「長崎造船所」と改称して経営に乗り出した。船舶修理施設として本格的な造船・造機工場の経営を意図したものだと、J-STAGEの論文は述べる。1887年に払下げ願いを申請し、名実ともに三菱社の経営になったとする。[7] 三菱側の年表も、1884年の借り受けと1887年の払い下げを記す。[1] 渋沢社史データベースの年表は、借用主体を郵便汽船三菱会社とし、官有物借用名義で全工場を引き受けたと記す。[6]

丸の内の取得

1890年(明治23年)3月、弥之助は丸の内の兵営跡と三崎町の練兵場、合わせて約10万坪を陸軍省から購入した。代金は128万円だった。陸軍が麻布に新兵舎を建てる費用を政府が捻出する必要があった、という経緯を三菱側の連載は伝える。契約名義は「岩崎久彌総理代人岩崎彌之助」で、後に商法が整備されてから三菱合資会社が買い取ったとする。[8] 土地は後に三菱のオフィス街開発の基盤となり、1894年に最初の煉瓦造の三菱第一号館が完成した。[1] 128万円という金額は、当時の東京市の予算の3倍にあたると同連載は述べる。[8]

三菱合資会社の設立(1893年)

設立の概要

三菱合資会社は、1893年(明治26年)に三菱社を改組して設立された。出資者は岩崎弥之助と岩崎久彌の2人である。鉱山・炭鉱・造船業などを営み、1895年に銀行業が加わった。[9] 三菱側の年表では、1893年に三菱合資会社が設立され、社長の弥之助が監務(後見職)となり、副社長の久彌が第3代社長に就任した。資本金は500万円で、岩崎両氏が折半出資した。営業の開業は1894年とされる。[1] 愛知大学の研究叢書は、久彌が留学を終えて副社長に就任した1891年から家政改革が始まり、1893年12月に三菱合資会社が新設されたと記す。[14] なお、日本大百科全書は、弥之助が1893年の商法施行に合わせて三菱合資会社を設立し、事業部門を移して家産と事業を分離したと説明している。[10] 岩崎家の本家と分家の2人が出資者となった点に、この会社の性格がよく表れている。

事業部制

1908年には独立採算の事業部制が実施された。1917年(大正6年)からは直営事業を株式会社として独立させ、持株会社となってコンツェルン体制を築いたと、Historistは述べる。[9]

分系会社への分離と戦時期(1917〜1945年)

事業部門の独立

1916年に久彌に代わって小弥太が社長に就任した。その経営のもとで、三菱合資は各事業部門を独立の株式会社として分離していった。日本大百科全書はこのように説明する。[10] 年表と研究によれば、独立した主な会社は次のとおりである。[1][14][19]

  • 1917年:三菱造船、三菱製鉄(両社とも11月1日に開業)
  • 1918年:三菱商事(営業部を独立)、三菱鉱業(鉱山部・炭坑部を独立)。東京倉庫が三菱倉庫と改称
  • 1919年:三菱海上火災保険、三菱銀行(銀行部を独立)
  • 1920年:三菱内燃機製造
  • 1921年:三菱電機

三菱商事の母体は、1899年に設置された営業部にあるとされる。営業部は一度廃止され、1911年に復活した。1902年には漢口出張所が、三菱合資として初めての海外拠点として開設された。その後、上海・香港・北京・ロンドン・ニューヨークにも拠点が設けられた。[19] これらの会社は、三菱合資の出資を受ける「分系会社」と呼ばれた。[14]

三菱合資の性格と株式会社三菱社

日本大百科全書は、三菱合資が地所事業をまだ直営していたため、純粋持株会社ではなく事業持株会社だったと指摘する。[10] 1937年12月、三菱合資会社は株式会社三菱社に改組された。愛知大学の叢書は、傘下会社の資本金払込みに対応する改組だったとする。[14] 1940年に株式が公開され、1943年に三菱本社と改称した。[9]

敗戦と財閥解体(1945〜1950年代)

1945〜1946年

1945年11月1日、三菱本社の株主総会で、岩崎小弥太をはじめとする取締役理事以上は全員が退陣した。同日、石黒俊夫が常務取締役に就任し、のちに清算人に選ばれて1950年8月まで務めた。[12] 三菱側の連載は、小弥太が昭和天皇の終戦放送を病床で聞いたと記す。GHQの財閥の自発的解散の指令を小弥太は受け入れず、大蔵大臣の説得にも応じなかったとも伝える。交渉中に体調を崩して入院し、本社幹部がやむなく要請を受け入れたという。三菱側の説明であることに留意する。[16] 小弥太は退陣から1カ月後の12月2日、大動脈瘤の破裂で死去した。[12][1]

1946年には持株会社整理委員会令が公布された。三菱本社と分系・関係会社32社が制限会社に指定されたと、三菱側の年表は記す。三菱本社は1946年に所有財産を持株整理委員会に譲渡して解散・清算に入った。[15] 日本大百科全書は、三菱本社の解散を1946年9月30日とする。[10]

持株会社の指定と三菱商事の解散

持株会社の指定は当初、大手財閥の本社のみを想定していたらしいが、対象が拡大され、第一次から第五次指定まで計83社が指定されたと、ダイヤモンド・オンラインは述べる。三菱では、本社以外に1946年12月の第三次指定で三菱重工業、三菱電機、三菱鉱業、三菱化成工業、三菱商事の5社が指定された。ただし解散命令を受けたのは三菱商事だけだった。[11] 命令は1947年7月にGHQから日本政府への覚書として通知された。[11] 三菱側の年表は、1947年に三菱商事がGHQの指令により解散・清算に入ったと記す。[15]

分割と再結集

1950年には三菱重工業が東日本重工業・中日本重工業・西日本重工業に分割され、三菱重工業は解散した。清算中の三菱商事は第二会社の光和実業を設立し、三菱鉱業は金属鉱業部門を分離した。[15] 同年には三菱の商号と標章の使用が禁止された。[15] 財閥商号使用禁止の政令が廃止されると、禁止されていた会社は三菱の名称に復帰した。光和実業は三菱商事と改称したという。[15]

Wikipediaの記述では、1954年に三菱商事が再合同し、同年に主要企業の会長・社長の親睦と情報交換を目的とする三菱金曜会が始まった。10年後の1964年には三菱重工業も再合同した。同記事は、金曜会が戦前の本社を頂点とする財閥の復活ではなく、グループ各社による対等なグループ形成だと位置づける。[13] 三菱側の年表では、金曜会の前身は1952年に発足した「社長懇談会」で、1954年に「三菱金曜会」と改称されたとある。[15] 日本大百科全書は、講和条約の締結(1951年)ごろから三菱系各企業が再成長し、金曜会を中心に三菱グループを形成して今日に至るとする。[10]

深掘り:数字と記録で見る三菱の変遷

「本社」の形が変わった跡

三菱の組織は、名称の変更を重ねただけではない。経営の主体は、弥太郎個人の商会(三菱商会)、海運を担う郵便汽船三菱会社、海運以外を担う三菱社、岩崎両氏の折半出資による合資会社、事業を子会社へ出す持株会社、と段階的に移った。三菱合資の資本金は500万円で、岩崎弥之助と久彌が折半出資した。出資者が2人に限られていた点は、岩崎家の家産と事業の関係を考える手がかりになる。[1][9]

1937年の株式会社三菱社への改組について、愛知大学の叢書は当時の社内説明の記録を引く。社長の説明の中に、合資会社時代の財務委員会について「主として岩崎一家の資産保全」のための取扱事項があったという趣旨の記述がある。ここは叢書が引く記録の一部であり、全文は未確認のため、詳細は原典の確認が必要である。[14]

三菱商事だけが解散した理由

ダイヤモンド・オンラインは、三菱商事と三井物産が解散を命じられた背景を、GHQが総合商社を持株会社と見ていたのかもしれないという推測として示している。四大財閥の総合商社は三井物産と三菱商事だけで、住友商事は戦後の発足だったという。この解説は筆者の見方であり、GHQ側の文書で確認した説明ではない。[11]

年次の揺れ

改称や設立の年が資料ごとにずれる箇所は他にもある。三菱社の設立は、日本郵船の設立に伴う1885年とする百科事典の説明[3]と、1886年とする三菱側年表[1]で表記が分かれる。共同運輸会社との合併も、1885年(日本郵船の設立)と1886年(共同運輸の項)で表記が分かれる。社史・年表・百科事典のどれを基にするかで年が変わりうるため、本稿は出典を付けて併記した。[1][3][4][18]

年表

  1. 1870年(明治3年)土佐藩の事業を引き継ぎ、九十九商会が設立される。弥太郎が責任者となる。日本大百科全書は同年閏10月とし、三菱自動車の沿革は同年10月とする[2]
  2. 1871年(明治4年)廃藩置県で九十九商会は純民営となる。弥太郎が経営を引き受ける。紀州新宮藩の炭鉱を租借し、鉱業部門に進出[1]
  3. 1872年(明治5年)九十九商会を三川商会と改称。この年、政府が日本国郵便蒸気船会社を設立[5]
  4. 1873年(明治6年)三菱商会と改称し、弥太郎が社主となる。吉岡鉱山を買収[1]
  5. 1874年(明治7年)本店を大阪から東京へ移し、三菱汽船会社(三菱蒸汽船会社)と改称。台湾出兵で軍事輸送を受命[4]
  6. 1875年(明治8年)2月に上海航路を開設。日本国郵便蒸気船会社の人員・施設を吸収し、9月15日に郵便汽船三菱会社と改称[6]
  7. 1881年(明治14年)長崎県の高島炭坑を買収。同年、明治十四年の政変で大隈重信が罷免される[1]
  8. 1882年(明治15年)三菱に対抗する共同運輸会社が設立される(設立許可を7月26日、発足を10月とする記述がある)[18]
  9. 1884年(明治17年)7月7日工部省の長崎造船局を借り受け、長崎造船所と改称して経営に乗り出す[7]
  10. 1885年(明治18年)弥太郎が死去し、弥之助が第2代社長に就任(三菱側年表)。9月に三菱・共同運輸の合併で日本郵船が設立されることがまとまる[4]
  11. 1886年(明治19年)弥之助が三菱社を設立し、海運以外の事業を経営(三菱側年表。日本大百科全書は1885年の日本郵船設立に伴う改称とする)[1]
  12. 1887年(明治20年)長崎造船所の払い下げを受ける[7]
  13. 1890年(明治23年)3月丸の内の兵営跡などを陸軍省から購入(三菱側の連載では約10万坪、代金128万円)[8]
  14. 1893年(明治26年)三菱社を改組して三菱合資会社を設立。久彌が第3代社長に就任し、弥之助は監務となる。開業は1894年[1]
  15. 1916年(大正5年)岩崎小弥太が社長に就任[10]
  16. 1917〜1921年三菱造船、三菱製鉄、三菱商事、三菱鉱業、三菱銀行、三菱電機などが三菱合資会社から相次いで独立[14]
  17. 1937年(昭和12年)12月三菱合資会社を株式会社三菱社へ改組[14]
  18. 1943年(昭和18年)三菱本社と改称[9]
  19. 1945年(昭和20年)11月1日三菱本社の株主総会で、岩崎小弥太らの取締役理事以上が全員退陣[12]
  20. 1946年(昭和21年)持株会社整理委員会令の公布。三菱本社と関係会社32社が制限会社に指定される。三菱本社は解散・清算に入る(解散日を9月30日とする説明がある)[15]
  21. 1947年(昭和22年)GHQの指令により三菱商事が解散・清算に入る[15]
  22. 1950年(昭和25年)三菱重工業が3社に分割。三菱の商号・標章の使用が禁止される[15]
  23. 1954年(昭和29年)三菱商事が再合同。三菱金曜会が発足[13]

関連する人物・一族・組織

  • 創業者岩崎弥太郎九十九商会の経営を引き受け、三菱商会、郵便汽船三菱会社へと発展させた三菱の創業者。
  • 所属岩崎家三菱を率いた岩崎家の本家と分家が、社長職を継承し、三菱合資会社に出資した。
  • 後継者岩崎弥之助弥太郎の弟で第2代社長。三菱社の設立、丸の内の取得、三菱合資会社の設立に関わった。
  • 後継者岩崎久彌弥太郎の長男で第3代社長。三菱合資会社の折半出資者の一人。
  • 後継者岩崎小彌太弥之助の長男で第4代社長。事業部門の分系会社化を進め、敗戦時の本社解散を迎えた。
  • 所属土佐藩九十九商会が事業を継承した元の組織。
  • その他共同運輸会社1882年に三菱の海運独占に対抗して設立され、のち合併して日本郵船の前身となった会社。
  • 後継者日本郵船1885年に三菱と共同運輸が合併して設立され、三菱の海運事業を引き継いだ会社。

よくある質問

三菱の前身は何という会社で、いつ始まったのか。
前身は土佐藩の事業を引き継いだ九十九商会である。三菱側の年表は1870年(明治3年)の設立とし、百科事典は同年閏10月とする。1872年に三川商会、1873年に三菱商会と改称した。[1][2]
海運事業はなぜ日本郵船に移り、三菱は何を中心にしたのか。
郵便汽船三菱会社は政府の保護下で海運の独占的地位を築いた。三菱側の連載によれば、独占への批判が強まり、政府は対抗する海運会社として共同運輸会社を設立させた。1882年に設立された同社と三菱は競争で赤字となり、1885年に合併して日本郵船が設立された。海運を離れた三菱は、鉱山・造船・銀行などを担う三菱社を中心とした。[20][4][3][1]
財閥解体で三菱はどうなったのか。
1945年11月に三菱本社の株主総会で岩崎家当主と首脳が退陣した。1946年に本社は解散し、1947年に三菱商事が解散・清算に入った。1950年には三菱重工業が3社に分割され、三菱の商号と標章の使用も禁止された。その後、商号使用の禁止は廃止され、三菱商事は1954年に再合同した。[1][10][13]

本記事は公開資料にもとづいて歴史を解説するものです。年代・人物関係などには諸説や資料による違いがあり得ます。誤りにお気づきの場合はお知らせください。詳細は各出典をご確認ください。

参考情報

  1. 三菱広報委員会 会員会社年表(PDF)(1870〜1950年代の各項目。九十九商会の設立、改称、三菱合資会社、分系会社化、解散の記述)
  2. 九十九商会(日本大百科全書) - コトバンク(1870年閏10月、土佐開成商社と九十九商会に関する記述)
  3. 三菱会社(日本大百科全書ほか) - コトバンク(三菱商会から郵便汽船三菱会社へ、共同運輸会社との競争、日本郵船設立)
  4. アジ歴グロッサリー 三菱汽船会社/郵便汽船三菱会社(台湾出兵、上海航路、西南戦争、共同運輸会社設立、1885年9月の合併)
  5. 日本郵船歴史博物館 航跡「日本郵船誕生前史」(日本国郵便蒸気船会社(1872年)から共同運輸会社、郵便汽船三菱会社への経過)
  6. 渋沢社史データベース 三菱造船社史年表(明治5〜17年の改称(三菱汽船会社、郵便汽船三菱会社)、長崎造船局の借用)
  7. 日本船舶海洋工学会誌 三菱重工業長崎造船所の歴史(J-STAGE)(1884年7月7日の借り受けと1887年の払下げ願い)
  8. 三菱人物伝 岩崎久彌物語vol.05 丸の内オフィス街の建設(1890年の丸の内取得、契約名義、代金128万円)
  9. 三菱合資会社(Historist)(設立、事業部制、持株会社化、解散の概要)
  10. 三菱財閥(日本大百科全書ほか) - コトバンク(財閥化への過程、三菱合資の位置づけ、GHQによる解体、再結集)
  11. ダイヤモンド・オンライン 財閥解体と持株会社指定の解説(1946年12月の第三次指定、三菱商事の解散命令)
  12. ダイヤモンド・オンライン 石黒俊夫「岩崎小弥太と財閥解体」秘話(1945年11月1日の株主総会、石黒俊夫の清算人就任)
  13. 三菱財閥 - Wikipedia(財閥解体後の三菱、1954年の三菱商事再合同と金曜会、1964年の三菱重工業再合同)
  14. 戦時期三菱財閥の経営組織に関する研究(愛知大学経営総合科学研究所叢書44)(1893年12月の三菱合資会社新設、1937年12月の株式会社三菱社への改組)
  15. 三菱広報委員会 会員会社年表(1946〜1954年の項目(制限会社指定、三菱商事解散、商号使用禁止と復帰、社長懇談会))
  16. 三菱人物伝 岩崎小彌太物語(敗戦直後の財閥解散要求への対応、1945年12月2日没)
  17. 安芸市 三菱創業者『岩崎彌太郎』(大阪土佐商会、九十九商会の設立と翌年の経営引き受け、三川商会・三菱商会への改称)
  18. 共同運輸会社 - Wikipedia(共同運輸会社の設立経緯と発起人)
  19. 三菱商事 創業者 岩崎彌太郎(manabow)(営業部の設置と、1917〜1918年の部門独立、三菱商事の設立)
  20. 三菱人物伝 岩崎彌太郎物語vol.21 三菱の独占ゆるすまじ(共同運輸の設立、第三命令書の内容、明治14年の政変と大隈重信の罷免)
  21. 三菱自動車 企業の歴史(沿革)(スリーダイヤ・マークの原型(1870年10月、船旗号の三角菱)と家紋由来の説明)