共同運輸会社の歴史:三菱に対抗して設立された海運会社と日本郵船への合併

企業・組織

基本情報
名称共同運輸会社
種類半官半民の海運会社(株式会社)
設立許可1882年(明治15年)7月26日
営業開始1883年1月とする資料が多い(アジ歴は1883年4月)
資本金600万円(うち政府が船舶260万円を出資)
前身東京風帆船会社・北海道運輸会社・越中風帆船会社
主な発起人渋沢栄一・益田孝・小室信夫・原六郎(推進は品川弥二郎)
社長伊藤雋吉(1882〜1885年)、森岡昌純(1885年)
終期1885年9月、郵便汽船三菱会社と合併し日本郵船会社となる
後継日本郵船

共同運輸会社は、1882年(明治15年)に三菱の海運独占への対抗として設立された半官半民の海運会社である。約3年の存続の末、1885年に郵便汽船三菱会社と合併して日本郵船会社となった。本稿は、設立の背景と発起の顔ぶれ、前身三社と資本の構成、三菱との競争の実態、合併の条件とその後を、資料で確認できる範囲で整理する。資料間で日付や評価が異なる箇所は、その旨を記す。

設立の背景:三菱への批判と政府の方針転換

三菱の海運事業は、土佐藩出身の岩崎弥太郎が創業した会社が担った。アジア歴史資料センターの解説によると、岩崎は1870年(明治3年閏10月)に土佐藩が設立した九十九商会を譲り受け、1872年(明治5年1月)に三川商会を設立して大阪―土佐間の航路を経営した。1873年(明治6年)3月に三菱商会と改称し、東京―大阪間にも進出して日本国郵便蒸気船会社と競争した[2]。三菱全体の歩みは三菱の成立と変遷にまとめている。

世界大百科事典の記述では、維新政府の海運振興策により、三菱会社は1875年以来、船舶の払下げや助成金の交付といった特別の保護を受けた[3]。その三菱について、1880年頃から運賃のあり方への批判が高まった。さらに明治十四年の政変で、三菱に肩入れしていた大隈重信が下野した。アジ歴の解説は、これを受けて政府が三菱への規制を強め、1882年7月に共同運輸会社を設立して対抗させたと説明する[2]。

日本大百科全書は別の角度からも背景を述べる。西南戦争後のインフレ期に創立された海運会社の多くは、松方財政によるデフレ期に経営困難に陥ったという。そのため政府は、農商務大輔の品川弥二郎の指導により、3社を合併させて共同運輸会社を設立させた[3]。つまり設立の背景には、三菱への批判と、乱立した中小海運会社の整理という二つの事情があったことになる。

発起人と前身三社

発起の顔ぶれ

アジ歴グロッサリーは、設立を推進したのは農商務大輔の品川弥二郎で、渋沢栄一・益田孝・小室信夫・原六郎が発起人となったと記す[1]。山川日本史小辞典も、品川を中心に渋沢栄一・益田孝らを発起人としたと記す[4]。PRESIDENT Onlineの記事は、渋沢栄一、益田孝、小室信夫、藤井三吉、堀基、原田金之助ら、三井系や関西財界の人物が創立委員となって資本を募ったと説明する[6]。

渋沢栄一の側では、渋沢栄一記念財団の変遷図が、共同運輸会社を「創立発起人」として関与した会社に挙げる[5]。同財団の『渋沢栄一伝記資料』第8巻の綱文は、東京風帆船・北海道運輸・越中風帆船の3社が政府に資金貸与を請願したところ、政府が各社を合併した一大汽船会社の創立を勧めたと記す。栄一はその創立発起人となり、1882年7月14日に品川弥二郎が発起人総代を召集して設立を允許し、同月26日に命令書を達したという[21]。渋沢の人物像は渋沢栄一の生涯で扱っている。

東京風帆船・北海道運輸・越中風帆船

共同運輸会社は、東京風帆船会社・北海道運輸会社・越中風帆船会社の3社を合併して成立した[3][4]。渋沢栄一関連の変遷図では、東京風帆船会社が1880年頃から1883年、越中風帆船会社が1881〜1883年、北海道運輸会社が1882〜1883年と整理されている[5]。

東京風帆船会社については、渋沢の自叙伝に基づく紹介がある。それによると、岩崎弥太郎は同社の株主の一人である廻船問屋のもとに行き、今後は関与しないよう誓約させたという。これは『渋沢栄一自叙伝』をもとにした後世の紹介記事の記述で、当事者の回想に依拠した話である[19]。PRESIDENT Onlineはこれを、栄一にとって「2年前のリベンジ」だったと位置づける[6]。

資本金と政府出資

資本金について、アジ歴は、当初300万円を予定していたが発足時に600万円に増額し、うち260万円を政府が現物(船舶)で出資したと記す[1]。山川日本史小辞典も、600万円のうち政府が260万円を出資したとする[4]。

発足と人事

設立許可の日付は、1882年7月26日とされる[7][17]。ただし「設立」の時点は資料によって違う。渋沢関係の変遷図は共同運輸会社の名称使用年を1882〜1885年とする[5]。PRESIDENT Onlineは、1882年10月に政府の許可を得て正式に発足し、翌年1月から営業を開始したと記す[6]。社史年表は、1883年1月1日に東京風帆船・越中風帆船・北海道運輸の三社を合併して開業したと記す[17]。『渋沢栄一伝記資料』の綱文も、1883年1月1日の三社合併による開業を記す[21]。一方、アジ歴の解説は1883年4月に開業したと記す[1]。開業時期は1月とする資料が多いが、4月とする資料もあり、本稿では確定しない。

人事について、アジ歴によると、政府は海軍少将の伊藤雋吉を社長に、海軍大佐の遠武秀行を副社長に任命した。遠武はそれまで東京風帆船会社などの社長を務めていた[1]。伊藤雋吉は、現役の海軍少将のまま社長に就任したと記録されている[15]。山川日本史小辞典は、この会社の性格を、半官半民の海運企業として説明する[4]。

三菱との競争

運賃引き下げと新鋭船

営業を始めた共同運輸は、船の数を増やして供給力を高め、運賃を引き下げて顧客を奪ったと、経済史の研究は整理する。航海中に体調を崩した客に薬を提供するなど、サービス面でも評価を得たという。これに対抗して郵便汽船三菱も運賃を引き下げた[8]。Wikipediaは、三菱側が運賃を2割引にしたため共同運輸も値引きで対抗し、以後2年間はダンピング競争による消耗が続いたと記す[7]。三菱の公式読み物は、旅客運賃が20〜30%オフとなり、三菱は不採算路線の廃止や人員削減を迫られたと述べる[10]。

日本郵船歴史博物館の解説は、東京〜四日市間の米1石の海上運賃が27円から10円まで値下げされた例を挙げ、競争が消耗戦の様相を呈したとする[12]。

速力でも競争があった。共同運輸はイギリス製の新鋭船を揃え、所要時間で優位に立った。三菱側は燃料費を度外視して速度を上げ、これも競合状態になったとされる[7]。その一隻の初代山城丸は1884年(明治17年)1月12日に進水し、同年5月に竣工して、7月9日に横浜港へ到着した[18]。山城丸は、この後の日本郵船の時代に、日本船として最初の官約ハワイ移民輸送でハワイに到着している(1885年12月15日)[13]。

政府の調整と競争の実態

横山和輝の整理によると、政府は両社に競争を防止する協定を結ばせた。しかし同年6月に競争が再燃し、政府は再度の調整として合併に踏み切った。同論文は、この競争が中小海運会社の顧客を奪いかねないものだったとする[8]。なお同論文の年の表記には揺れがあり、協定を結ばせた年は本稿では特定しない。

一方、関口かをり・武田晴人(2010)は、従来の通説に疑問を投げかけている。通説は、1883年に始まり、1884〜85年に激烈な運賃値下げ競争になったというものである。社史にも、競争は1883年1月から1885年9月まで約2年9カ月にわたったとする記述がある。両氏は、郵便汽船三菱の減収の要因を検討し、船の配備状況から見て競争の開始は早くても1884年初頭に農商務卿が速力制限を指示した時点であると指摘する。本格化したのは同年後半に新造汽船が到着して以後だと論じる[9]。つまり、競争の長さや激しさの評価は、社史と後世の研究とで一致していない。

社長更迭と合併

1885年2月7日に岩崎弥太郎が死去し、2月18日に弟の岩崎弥之助が郵便汽船三菱会社の社長に就任した[13]。アジ歴によれば、両社の経営状況が悪化し、海運業全般の危機を招いたため、政府は同年4月、共同運輸の社長と副社長を更迭して合併を進めた[1]。4月9日には森岡昌純が共同運輸の社長に就任した[13][16]。

合併の調整にあたった人物として、日本郵船歴史博物館は、当時の農商務卿である西郷従道が両社の共倒れを避けるべく協議を促したと記す[12]。渋沢関係の変遷図も西郷従道らの尽力を挙げる[5]。アジ歴は、合併工作は難航したが9月末に完了したとする[1]。三菱の公式読み物は、弥之助が国の大計を考えて合併を受け入れたと記している。これは三菱側の説明である[10]。

日本郵船会社の成立

日本郵船会社は1885年9月29日に創立され、10月1日に営業を開始した。資本金は1100万円で、政府から年額88万円の定額補助金が下付された[14]。初代社長は共同運輸出身の森岡昌純で、本店は日本橋区南茅場町に置かれた。上海航路以下14航路を受命している[13]。

出資比率は三菱5対共同6である。三菱の読み物によると、共同の株主には三菱関係者も多く、2社を合わせると過半数は三菱側だった。筆頭株主は弥太郎の跡取りの岩崎久弥、次が大蔵省、3番目が弥之助である[11]。2代社長には三菱出身の吉川泰二郎が就いた[11]。この結果、共同運輸は社名としては消滅し、Wikipediaも、三菱系の社員が台頭し、名実ともに共同運輸が消滅したと記す[7]。

新会社の旗は、白地に赤線2本の「二引」である。日本郵船歴史博物館は、2本の赤い線が合併した両社を象徴するとともに、航路の地球横断と弥太郎の世界一周の悲願を表したものといわれると記す。同館によれば、郵便汽船三菱会社の従業員約2,200人のうち515人が新会社に移籍した[12]。日本郵船のその後は日本郵船の歴史にまとめている。

深掘り:資料ごとに異なる点

共同運輸会社を扱う資料には、数値や日付の食い違いがある。主な点を確認しておく。

  • 開業の時期:1883年1月とする資料[3][6][17][21]と、1883年4月とするアジ歴[1]がある。設立許可を7月26日とするもの[7][17]と、10月の発足とするもの[6]も併存する。
  • 合併の年:日本郵船会社の成立は1885年9月29日で、日本郵船・アジ歴・渋沢関係年表が一致する[13][14][20]。これに対し、Wikipediaの共同運輸会社の記事は概要欄で合併を1886年と記す[7]。
  • 日本郵船設立時の船舶数:渋沢関係の社史年表は所有汽船を58隻と記す[13]。他の資料は異なる数を挙げる場合があり、本稿では確定しない。
  • 移籍した職員:歴史博物館は郵便汽船三菱の約2,200人のうち515人が移籍したと記す[12]。三菱の読み物は、幹部を含む五百余名の職員と千余名の船員を差し出したと記す[11]。数え方の違いが考えられるが、資料からは確認できない。
  • 競争の評価:競争を2年9カ月にわたる激烈な値下げ競争とみる伝統的な説明と、開始は早くても1884年初頭で、本格化は同年後半以後とする研究[9]がある。運賃の引き下げ幅や収入減少の要因については、研究ごとに検討が分かれる。

共同運輸の性格も、資料により強調点が異なる。日本大百科全書は、三菱の海運独占に対抗する半額政府出資の会社として、世界大百科事典は三井資本を中心に政府出資を得た会社として説明する[3]。PRESIDENT Onlineは、政府が260万円を拠出したことから政府の息のかかった会社だったと述べる[6]。共同運輸を「三井系」と一言で呼ぶのではなく、政府の船舶出資と民間の発起人の双方を見る必要がある。

年表

  1. 1880年頃三菱の運賃のあり方への批判が高まる。[2]
  2. 1881年明治十四年の政変で大隈重信が下野し、政府は三菱への規制を強める。[2]
  3. 1882年7月26日共同運輸会社の設立が許可される(発足を10月とする資料もある)。[17]
  4. 1883年1月東京風帆船・越中風帆船・北海道運輸の三社を合併して開業(アジ歴は4月開業と記す)。[17]
  5. 1884年新鋭船の山城丸が竣工し、7月9日に横浜港に到着する。[18]
  6. 1885年2月7日郵便汽船三菱会社社長の岩崎弥太郎が死去する。[13]
  7. 1885年4月9日森岡昌純が共同運輸会社社長に就任する。[13]
  8. 1885年9月29日郵便汽船三菱会社と共同運輸会社が合併し、日本郵船会社が創立される。[13]
  9. 1885年10月1日日本郵船会社が営業を開始し、二引の社旗を制定する。[13]

関連する人物・一族・組織

  • 後継日本郵船1885年に共同運輸会社と郵便汽船三菱会社が合併して成立した会社である。
  • 合併相手郵便汽船三菱会社競争の末、1885年に共同運輸と合併して日本郵船となった。
  • 発起人渋沢栄一共同運輸会社の創立発起人の一人である。
  • 競争相手岩崎弥太郎三菱の創業者で、共同運輸との競争の最中の1885年に死去した。
  • 競争相手岩崎弥之助弥太郎の死後に郵便汽船三菱会社の社長に就任し、合併を受け入れた。
  • 関係者大隈重信明治十四年の政変で下野し、政府が三菱への規制を強める契機となった。
  • 関連企業三菱の成立と変遷共同運輸が対抗した三菱会社の成り立ちを扱う。
  • 社長森岡昌純共同運輸会社の最後の社長で、日本郵船会社の初代社長である。
  • 社長伊藤雋吉共同運輸会社の初代社長を務めた海軍軍人である。

よくある質問

共同運輸会社はいつ設立され、いつ営業を始めたのか。
設立許可は1882年(明治15年)7月26日とされる。営業開始は1883年1月とする資料が多いが、アジア歴史資料センターの解説は1883年4月開業と記しており、資料により異なる[1][3][13]。
共同運輸会社は三井の会社だったのか。
世界大百科事典は三井資本を中心に政府出資も得て設立されたと説明する。一方、資本金600万円のうち260万円は政府の船舶による出資で、半官半民の会社であった。三井単独の会社とは言えない[1][3][4]。
合併後の日本郵船は、どちらの会社が主導したのか。
初代社長は共同運輸出身の森岡昌純で、出資比率は三菱5対共同6とされる。ただし共同の株主にも三菱関係者が多く、両社を合わせると過半数は三菱側だったと三菱の記述は述べる。以後の社長には三菱出身者が就いた[10][11][16]。

本記事は公開資料にもとづいて歴史を解説するものです。年代・人物関係などには諸説や資料による違いがあり得ます。誤りにお気づきの場合はお知らせください。詳細は各出典をご確認ください。
記事はAIによる下書きを、編集部のルールに基づいて確認のうえ公開しています。作り方と確認の体制は編集方針をご覧ください。

参考情報

  1. 共同運輸会社|アジ歴グロッサリー(解説全体。発起人、資本金、社長・副社長、1885年の更迭と合併)
  2. 三菱汽船会社/郵便汽船三菱会社|アジ歴グロッサリー(九十九商会の譲受(1870年)、三川商会設立(1872年)、三菱商会改称、1880年頃の批判、明治十四年の政変、共同運輸設立)
  3. 共同運輸会社(日本大百科全書・世界大百科事典)|コトバンク(設立の背景、三社合併、半額政府出資、合併)
  4. 共同運輸(山川日本史小辞典 改訂新版)|コトバンク(資本金600万円、政府260万円出資、1885年4月の森岡社長就任)
  5. 海運A|渋沢栄一関連会社名・団体名変遷図(渋沢栄一記念財団)(共同運輸と前身各社の名称使用年、西郷従道らの尽力)
  6. 「三菱と三井の代理戦争」渋沢栄一と岩崎弥太郎が死の直前まで対立したワケ(PRESIDENT Online)(創立委員、資本金と政府出資、営業開始)
  7. 共同運輸会社(Wikipedia)(設立許可日、値下げ競争、出資比率、合併時期の記載(1886年とする箇所あり))
  8. 横山和輝「明治期の海運競争」(名古屋市立大学ディスカッション・ペーパー)(競争の展開、運賃引き下げ、政府の調整)
  9. 関口かをり・武田晴人「郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の「競争」実態について」(三菱史料館論集第11号)(従来説への検討、競争の開始時期)
  10. 黒潮の海、積乱雲わく 岩崎彌太郎物語vol.23(三菱人物伝)(合併の受け入れ、出資比率、日本郵船の社長)
  11. 三菱人物伝 岩崎彌之助物語 第4回(三菱グループ)(日本郵船誕生、出資比率、株主、2代社長)
  12. 日本郵船会社の誕生|航跡(日本郵船歴史博物館)(運賃値下げの例、合併、移籍人数、二引の社旗)
  13. 日本郵船(株)『七十年史』関連年表(渋沢社史データベース)(1885年の岩崎弥太郎死去、森岡社長就任、合併、営業開始)
  14. 日本郵船会社|アジ歴グロッサリー(日本郵船会社の成立日、資本金、補助金)
  15. 伊藤雋吉(Wikipedia)(共同運輸会社初代社長としての経歴)
  16. 森岡昌純(Wikipedia)(1885年の共同運輸社長就任と日本郵船初代社長)
  17. 日本郵船(株)『七十年史』関連年表(渋沢社史データベース)(1882年7月26日の創立、1883年1月1日の三社合併開業)
  18. 山城丸(Weblio辞書/Wikipedia)(初代山城丸の進水・竣工・到着の日付)
  19. 鷗外ならぬ歴史人 渋沢栄一と共同運輸会社(rekijin)(『渋沢栄一自叙伝』に基づく東京風帆船会社をめぐる記述)
  20. 沿革(日本郵船)(1885年9月29日設立、10月1日創業、二引の旗章)
  21. 『渋沢栄一伝記資料』第8巻 目次詳細(綱文)(渋沢栄一記念財団)(第2章第1節第2款 共同運輸会社の綱文(明治15年7月14日、明治16年1月1日の項))