郵便汽船三菱会社の歴史:明治政府の海運政策と岩崎弥太郎による海運独占
| 名称 | 郵便汽船三菱会社(通称:三菱会社。前身は九十九商会、三菱商会、三菱汽船会社) |
|---|---|
| 創業者 | 岩崎弥太郎 |
| 前身の成立 | 1870年(明治3年)九十九商会 |
| 三菱商会への改称 | 1873年(明治6年) |
| 本社の東京移転 | 1874年(明治7年)4月 |
| 郵便汽船三菱会社への改称 | 1875年(明治8年)。月は資料により1月または9月と異なる |
| 主な航路 | 横浜・上海航路(1875年開設)など |
| 競争相手 | パシフィック・メイル社、P&O社、共同運輸会社 |
| 終了 | 1885年(明治18年)9月、共同運輸会社との合併で日本郵船会社が成立。同月30日に閉鎖 |
| 後継 | 日本郵船会社(海運)、三菱社(他事業) |
郵便汽船三菱会社は、岩崎弥太郎が率いた三菱の海運事業の名称である。1870年代に政府の海運政策と結びついて成長し、1885年に日本郵船へ発展的に解消した。本稿では、台湾出兵や命令書による政府保護、上海航路をめぐる外国船会社との競争、明治14年の政変後の規制、共同運輸会社との消耗戦、日本郵船への合併までを、資料で確認できる範囲でたどる。
前身:九十九商会から三菱商会へ
三菱の海運事業の起点は1870年(明治3年)とされる。日本郵船歴史博物館は、岩崎弥太郎がこの年、東京・大阪・高知間で海上物資輸送を行う九十九商会(後の三菱商会)を設立したと説明する[17]。アジ歴の解説は、土佐藩士出身の岩崎が廃藩置県を機に、土佐藩が藩有汽船を扱う事業を引き継いだ経緯を記している[1]。函館市史は、高知藩から払い下げられた汽船9隻、4690トン余で営業を開始したと記す[2]。
社名は段階的に変わった。三菱商事の社史的解説は、1873年に船旗の三つの菱形にちなんで「三菱」商会と改称したとする[7]。岩崎弥太郎の人物については、岩崎弥太郎の生涯と三菱の成立と変遷も参照されたい。
当時の国内には、政府の肝いりで生まれた日本国郵便蒸気船会社があった。函館市史によれば、同社は1871年の廃藩置県の際に政府が諸藩の船舶を官収したのを契機に、為替会社の役員に勧めて1872年8月に設立させた会社である。官収船の払下げ、政府補助、為替会社からの融資を受け、郵便物や貢米の輸送を主な業務とした[2]。同書は、この会社が総じて官僚的であったのに対し、三菱は顧客第一主義の商法で臨み、次第に優位に立ったと評価している[2]。これは自治体史の評価であり、当事者の自己認識とは区別して読む必要がある。
台湾出兵と政府との結びつき
転機は1874年(明治7年)の台湾出兵であった。アジ歴は、この年4月に本社を大阪から東京に移して三菱汽船会社(正式名称は三菱蒸気船会社)と改称し、7月の台湾出兵で軍事輸送を受命したと記す[1]。函館市史によれば、政府は同年2月に出兵を決定し、大隈重信大蔵卿を長官とする蕃地事務局を設けて兵員と軍需品の輸送を計画した。三菱は蕃地事務局から委託された汽船で軍事輸送にあたり、これを機に大隈大蔵卿や大久保内務卿ら政府首脳との関係を深めた。出兵の終結で蕃地事務局が廃止されると、同局所有の船はすべて大蔵省に移管された[2]。
関係した政治家については、大隈重信の生涯と大久保利通の生涯に詳しい。
上海航路の開設と郵便汽船三菱会社への改称
1875年に入ると、政府は三菱に定期航路の開設を求めた。渋沢栄一記念財団の解説は、政府が民間海運の育成を国の存続に関わる課題と考え、13隻の外国船を購入して運航を委託し、のちに払い下げ、運営する民間企業に15年間で年額25万円の補助金を出すことを決めたと述べる。同解説は、1875年1月に政府が三菱に上海定期航路の開設を命じたとも記す[13]。All Aboutの記事は、1875年1月10日に日本国郵便蒸気船会社を三菱汽船会社が継承し、社名が「郵便汽船三菱会社」と改称され、同時に横浜・上海間の定期航路開設を命じられたとする[6]。
改称の時期については、資料間で表現が異なる。アジ歴は、1875年2月に上海航路を開設し、同年9月に郵便汽船三菱会社と改称したと記す[1]。三菱商事の解説は、第一便の東京丸が2月3日に出航し、弥太郎の弟の彌之助が乗船したと記す[7]。三菱のウェブサイトの沿革は、1875年に郵便汽船三菱会社と改称したとのみ記す[10]。本稿では、改称を1875年のこととし、月は資料によって異なるので断定しない。
上海航路の運航について、三菱グループの解説は、横浜を出港し神戸、門司を経由して約1週間で上海に着く週1便であったと記す[16]。競合する米国のパシフィック・メイル社(PM社)は、約4000総トンの蒸気船を運航していた[16]。三菱商事の解説は、価格競争により運賃が半値以下になり、有事の徴用を条件に三菱への助成が決まったと記す[7]。
船の無償貸与・下付をめぐる数字の違い
政府から三菱に渡された船の数は、資料によって異なる。
- 第一命令書に関する『日本郵船株式会社百年史』の記述(レファレンス事例による)では、征台の役で購入した東京丸など13隻を無償で下付し、助成金として毎年25万円を15年間給付するとされる[9]。
- アジ歴は、解散した郵便蒸気船会社所有の汽船15隻の無償貸し下げを受けたと記す[1]。
- 三菱商事の解説は、解散した同会社の船舶18隻が無償で供与されたとする[7]。
- 同じ百年史の第二命令書の記述では、第一命令書の後に船舶17隻も下付され、合計39隻を所有したとされる[9]。
これらは「13隻」「15隻」「18隻」「17隻」と数え方や対象が異なる可能性があるが、各資料の範囲だけでは確定できない。本稿は数字を並べるにとどめる。
命令書による保護と監督
政府の助成は「命令書」という形で与えられた。レファレンス事例によれば、第一命令書は1875年9月15日、第二命令書は1876年9月15日、第三命令書は1882年2月28日に出された[9]。
第一命令書で、三菱は毎月の会計報告と監査、一定量目までの郵便物の無賃輸送、政府が必要とする場合の船舶提供、商船学校を設立しての海員養成といった義務を負った[9]。第二命令書では、運行助成金25万円を国際航路と国内航路の助成として支給することが定められた[9]。三菱のウェブサイトは、第一命令書には三菱に有利な条件が多く含まれていたと説明する[10]。これは三菱側の記述である。
なお、渋沢栄一記念財団の解説は、1875年5月に制定された三菱汽船会社の規則には、会社は岩崎一家が所有運営し、社長が全権を握り、利益も損失もすべて社長個人に帰属すると明記されていたと記す[13]。政府保護を受けつつ、経営は家業的な性格の強いものだったことがわかる。
外国船会社との競争
パシフィック・メイル社の営業権買取
上海航路でPM社との競争が続くなかで、政府内には国内資本による上海航路の確保を重視する意識があった。三菱商事の解説は、駅逓頭の前島密がPM社の営業権買取を主張し、内務卿の大久保利通が財政支援を約束したと記す。三菱はPM社と交渉して営業権を買い取った[7]。All Aboutの記事は、PM社の横浜・上海間の支線に対して価格競争を行い営業を断念させたが、横浜・サンフランシスコ間の本線は引き続きPM社に頼るほかなかったとしている[6]。船の科学館の解説は、PM社との激しい競争の末に郵便汽船三菱会社が1875年に買収した外輪蒸気船「広島丸」(1,869総トン)が上海航路に使われたと紹介する[18]。
P&O社の参入
PM社の撤退後は、英国のP&O社が参入した。三菱商事の解説は、同社が香港・上海・横浜航路に加えて大阪・東京間にも進出し、三菱に反発する顧客を取り込んだと記す。弥太郎は1876年、上海航路での勝利は社員の奮闘によるものとして、資格ごとに一律の賞与を支給した[7]。アジ歴は、日本政府の保護のもとで太平洋郵船会社(PM社)やP&O汽船会社との競争に勝ち、沿岸航路から外国汽船会社を締め出すことに成功したと総括する[1]。山川『日本史辞典』も、政府保護のもとで欧米海運会社を日本沿岸航路から駆逐したと記す[3]。
西南戦争と事業の拡大
1877年の西南戦争では、三菱は軍事輸送の主役となった。日本郵船歴史博物館は、これにより信用と利益を得て海運事業が飛躍的に発展したと記す[17]。アジ歴は、西南戦争時に政府からの借用金で汽船8隻を購入したとする[1]。三菱のウェブサイトは、政府の要請に応じて全社をあげて軍事輸送を担ったとする[10]。
この時期の三菱は、海運以外の分野にも広がった。1879年には日本初の損害保険会社として東京海上保険会社が設立された[10]。北海道方面では、1875年に横浜・函館間の北海定期航路を開設した[2]。
批判の高まりと明治14年の政変
1880年ごろから、三菱の運賃に対する批判が強まった[1]。三菱側の記述では、三菱は政府から多額の助成を受けながら高い運賃を国民に負わせ、その利益を金融や炭坑、鉄道などに投じて蓄財しているという趣旨の反三菱の主張があったとされる[10]。NYK歴史博物館は、政府内外で独占への批判が高まったと記す[5]。渋沢栄一記念財団の解説は、創業直後の大型助成が官民の癒着として批判されたと記す[13]。
1881年の明治十四年の政変で、三菱に肩入れしていた大隈重信が下野すると、政府は三菱への規制を強めた[1]。PRESIDENT Onlineの記事は、1881年12月に農商務卿の西郷従道が弥太郎を呼び出して第二命令書の改定を通告し、翌年2月に第三命令書を交付したと記す[14]。第三命令書は、海上運送に専念して商品売買を行わないこと、払下げ代金を全納するまで船を質入れ・売却しないこと、修繕の際は事前に政府へ届け出ることなどを定めた[10]。これらは、政府が当初の第二命令書の内容を実質的に改めたものである。
共同運輸会社の設立と消耗戦
同じ記事によれば、西郷従道は1882年5月に新たな汽船会社の創設を政府に上申した[14]。1882年7月、半官半民の共同運輸会社が設立された[1]。日本郵船歴史博物館は、第一国立銀行頭取の渋沢栄一、三井物産社長の益田孝らが中心になって創立したと記す[5]。三菱のウェブサイトは、渋沢栄一や井上馨が画策し、政府出資を核に三井など反三菱勢力が結集して7月に誕生したとし、初代社長は伊藤雋吉海軍少将であったとする[11]。会社の詳細は共同運輸会社の歴史に譲る。
共同運輸の営業開始後の競争では、東京〜四日市間の米1石の海上運賃が27円から10円まで下がるなど、値引きによる消耗戦の様相を呈した[8]。両社とも赤字となった[1]。
弥太郎の死と日本郵船の成立
1885年2月7日に岩崎弥太郎が没した。日本郵船歴史博物館は、農商務卿の西郷従道が両社共倒れの危機を避けるため協議を促し、その交渉のさなかに弥太郎が50歳で死去したと記す[8]。後を継いだのは弟の岩崎弥之助である[3][12]。
1885年9月に両社が合併し、日本郵船会社が成立した[1]。新会社には、郵便汽船三菱会社の従業員約2,200人のうち515人が移籍し、初代社長には共同運輸の森岡昌純が就任した[8]。郵便汽船三菱会社は1885年9月30日をもって閉鎖された[12]。日本郵船の「二引の旗章」は、三菱と共同運輸の2社の合同を表すとされる[17]。日本郵船の通史は日本郵船の歴史を参照されたい。
なお、コトバンクの解説は、合併後も岩崎家は日本郵船の実質的な支配権を保持したとする[3]。
海運以外の事業と三菱社
第三命令書は海上運送に専念して商品売買を行わないことを求めていた[10]。海運事業を日本郵船へ移した後、弥之助は1886年3月に東京府知事へ書状を出し、社名を「三菱社」として高島炭坑や長崎造船所などの事業を行うと届け出た[12]。山川『日本史辞典』は、1893年に鉱山・造船・銀行を主軸とする三菱合資会社になったと記す[3]。岩崎弥之助の生涯も参照されたい。
深掘り:長崎造船所と外国人社員から見る三菱会社
長崎造船所の貸与と払下げ
郵便汽船三菱会社は、船の運航だけでなく自社の造船・修繕の拠点を求めた。三菱重工の史料館は、官営の長崎造船所について、政府が民間に経営を委ねる方針を出した時、三菱が機を逃さず貸与を願い出たと説明する[15]。アジ歴によれば、1884年7月、官営工場の民間委託を進める政府は長崎造船局を郵便汽船三菱会社に貸与し、三菱の経営となった[4]。
1887年の払下げについては、アジ歴が1887年4月に官業貸与物は借用者に払い下げる方針となり、政府は敷地と設備一切を三菱社に売却したと記す[4]。三菱重工の史料館によれば、同年4月に三菱社社長の岩崎彌之助が大蔵大臣の松方正義に払下げを申請し、6月に代金45万9千円で許可された[15]。アジ歴は関連文書として「長崎造船所ヲ五十ヶ年賦ヲ以テ三菱会社長岩崎弥之助ニ払下ヲ許可ス」(アジ歴Ref: A15111450300)を挙げており、50年賦の払下げであったことがわかる[4]。
外国人社員の多さ
三菱には外国人社員が多かった。三菱のウェブサイトによれば、1882年には従業員2500人中400人を外国人が占め、各支社には日本人と外国人の支配人が1名ずついた[12]。上海航路や外国船会社との競争の現場で、外国人との実務が不可欠であったことを示す数字である。ただし、この資料からは職種別の内訳や出身国は確認できない。
資料間の相違に注意すべき点
本稿で扱った事項には、資料により記述が異なる点がある。船の下付数(13・15・17・18隻)、改称の時期(1875年1月か9月か)、日本郵船の発足日(アジ歴は9月、他資料は9月29日や10月1日の記述がある)などである。また、「政府との癒着」「独占の弊害」といった評価は、三菱側の社史・伝記、自治体史、雑誌記事などで強調点が異なる。命令書の条文そのものや当時の公文書にあたって数字を確認することが、次の作業になる。
年表
- 1870年(明治3年)岩崎弥太郎が九十九商会を設立し、東京・大阪・高知間で海上輸送を行う[17]
- 1872年(明治5年)8月政府の肝いりで日本国郵便蒸気船会社が設立される[2]
- 1873年(明治6年)三菱商会と改称する[7]
- 1874年(明治7年)4月本社を大阪から東京に移し、三菱汽船会社(正式名称は三菱蒸気船会社)と改称する[1]
- 1874年(明治7年)7月台湾出兵で軍事輸送を受命する[1]
- 1875年(明治8年)2月横浜・上海航路を開設する(第一便の東京丸は2月3日出航)[7]
- 1875年(明治8年)郵便汽船三菱会社と改称する(アジ歴は9月、All Aboutは1月10日の継承時とする)[1]
- 1875年(明治8年)9月15日第一命令書が出される[9]
- 1876年(明治9年)9月15日第二命令書が出される[9]
- 1877年(明治10年)西南戦争で軍事輸送の主役を務める[17]
- 1881年(明治14年)明治十四年の政変で大隈重信が下野し、政府が三菱への規制を強める[1]
- 1882年(明治15年)2月28日第三命令書が出される[9]
- 1882年(明治15年)7月共同運輸会社が設立される[1]
- 1884年(明治17年)7月長崎造船局が郵便汽船三菱会社に貸与される[4]
- 1885年(明治18年)2月7日岩崎弥太郎が没し、弟の弥之助が継ぐ[8]
- 1885年(明治18年)9月共同運輸会社との合併で日本郵船会社が成立し、郵便汽船三菱会社は9月30日に閉鎖される[12]
- 1886年(明治19年)3月弥之助が三菱社として高島炭坑や長崎造船所などの事業を行うと届け出る[12]
- 1887年(明治20年)長崎造船所が三菱社に払い下げられる(4月に申請、6月に許可)[15]
関連する人物・一族・組織
よくある質問
- 郵便汽船三菱会社の「命令書」とは何か。
- 政府が三菱に出した助成と監督の条件書で、第一命令書は1875年9月15日、第二命令書は1876年9月15日、第三命令書は1882年2月28日付とされる[9]。第一命令書では政府購入の外国船13隻の無償下付と年25万円の15年間給付が定められ、三菱側には会計報告や郵便物の無賃輸送などの義務が課された[9]。第三命令書は海上運送に専念し商品売買を禁じるなど監督を強めた[10]。
- 郵便汽船三菱会社はいつ、なぜ消滅したのか。
- 1885年9月、共同運輸会社との合併により日本郵船会社が成立し、海運事業をすべて同社へ移した。郵便汽船三菱会社は同年9月30日をもって閉鎖された[12]。両社の運賃競争で双方が赤字となり、政府が仲介したことが背景にある[1][8]。
- 海運以外の三菱の事業はどうなったのか。
- 海運の譲渡後、岩崎弥之助は1886年3月に東京府知事へ届け出て、社名を「三菱社」として高島炭坑や長崎造船所などの事業を続ける方針を示した[12]。長崎造船所は1884年7月に郵便汽船三菱会社へ貸与され、1887年に払い下げられた[4]。