麻生の事業史:目尾御用山の採掘から炭鉱経営、石炭からセメントへの転換まで
| 名称 | 麻生(株式会社麻生商店→麻生鉱業→麻生産業→麻生セメント。現在の株式会社麻生は麻生セメントの後身) |
|---|---|
| 起点 | 1872年(明治5年)、麻生太吉による目尾御用山(飯塚市)での石炭採掘着手(公式沿革) |
| 創業者 | 麻生太吉(1857-1933) |
| 株式会社麻生商店の設立 | 1918年(大正7年)6月1日 |
| 麻生鉱業への改称 | 1941年(昭和16年)5月1日 |
| 麻生産業の発足 | 1954年(昭和29年)10月1日(麻生鉱業と産業セメント鉄道の合併) |
| 麻生セメントの発足 | 1966年(昭和41年)11月4日 |
| 最後の炭鉱の閉山 | 1969年(昭和44年)4月30日 吉隈鉱業所 |
| 麻生産業の解散 | 1969年(昭和44年)6月30日 |
| 所在地(創業地) | 福岡県飯塚市 |
麻生の事業は、筑前国嘉麻郡の庄屋の家に生まれた麻生太吉が、明治初年に炭山の採掘に関わったことから始まる。この記事では、炭鉱の開発と売却、株式会社麻生商店の設立、セメント事業の形成、1960年代末の閉山と麻生セメントの分離までを、公式沿革・辞典類・Wikipediaで確認できる範囲でたどる。
なお、確認できる資料の多くは企業の公式沿革である。これらは企業側の説明であるため、本文では出典を明示して扱う。社史『麻生百年史』は渋沢社史データベースの目次・メモで確認できる範囲にとどめた。
起点:麻生家と目尾御用山
麻生太吉の出自
麻生太吉は安政4年7月7日(1857年8月26日)に生まれ、昭和8年(1933年)12月8日に没した[3]。Wikipediaの年譜によれば、生地は筑前国嘉麻郡栢森村(現在の飯塚市柏の森)で、父の賀郎は村の庄屋を務めていた[3]。同年譜は、1868年に父が村への貸渡金を免除したことで大庄屋格を命じられ、「麻生」の苗字を名乗ることを許されたと記す[3]。1872年には太吉と改名し、同年11月に立岩村副戸長となった[3]。
麻生家の家訓「程度大切、油断大敵」は、1928年(昭和3年)5月27日に太吉が創定したと、公式沿革は記す[2]。
1872年の着手
麻生グループの公式沿革は、1872年(明治5年)に麻生太吉が飯塚市目尾の目尾御用山で石炭採掘事業に着手したことを起点とする[1][2]。Wikipediaの年譜は、この年に太吉と改名し、目尾御用山を共同で採掘して炭山開発に初めて着手した(麻生炭坑の興り)と記す[3]。『20世紀日本人名事典』は、明治5年に父賀郎と共に石炭採掘に従事したと記す[4]。
事業の始まりについては、公式沿革は太吉個人を主語にし、年譜は共同採掘とし、人名事典は父との従事とする。本稿は各資料の表現を併記するにとどめ、共同者の内訳は不明とする。
鯰田炭坑と最初の売却
鯰田の開発
『世界大百科事典』は、太吉が1884年に鯰田で近代的な炭鉱の開発に着手し、以後は炭鉱を売却しながら経営基盤の拡張に努めたと説明する[4]。渋沢社史データベースの社史メモは、1881年に嘉麻社を設立したと記す[8]。同書の目次には「鯰田炭坑の経営」「鯰田から忠隈へ」の項が見える[8]。
1889年の三菱への譲渡
公式年表によれば、1889年(明治22年)4月に鯰田炭坑を三菱社へ譲渡した[1]。三菱側の事情については三菱の成立と変遷を参照されたい。
『世界大百科事典』によれば、太吉はその後も炭鉱の開坑を続けた。1891年に山内、1894年に上三緒、1901年に豆田、1906年に綱分、1909年に吉隈、1913年に赤坂などを開坑し、貝島・安川(松本)とともに筑豊御三家と称された[4]。
炭鉱の売却と再編
公式年表と事典によれば、太吉は有力炭坑を大手に売却しながら事業を組み替えた。
『20世紀日本人名事典』は、恐慌・災害・資本不足から炭坑を売却し、独自の販売機関を設けて苦境を乗り切ったと説明する[4]。『麻生百年史』の目次には「石炭販売会社の設立」「販路の確立」の項もある[8]。
Wikipediaの年譜は、1902年1月に藤棚炭坑を譲り受け、1903年4月に笹原炭坑の経営に参画したと記す[3]。これらの坑の経営が順調だったかどうかは、本稿で用いた資料からは判断できない。
株式会社麻生商店と多角化
会社組織化
株式会社麻生商店は1918年(大正7年)6月1日に設立され、太吉が社長に就任した[6]。麻生セメントの公式沿革も、1918年に麻生商店を株式会社組織としたと記す[7]。Wikipediaの「麻生鉱業」も、1872年の太吉の炭鉱業参入を起源とし、1918年に法人化したと記す[5]。
周辺事業
太吉は炭鉱以外にも事業を広げた。公式年表には、次の項目が見える。
- 1908年10月31日:嘉穂電灯が設立され、太吉が社長に就任。1910年5月に営業を開始し、飯塚に筑豊初の電灯がともった[1]
- 1913年6月:九州水力電気の取締役に就任[1]
- 1928年:九州水力電気の社長に就任(同社社長の在任は1928〜1933年)[3]
医療では、1918年8月9日に社内診療を目的に麻生炭鉱病院が開設され、1920年8月23日に私立飯塚病院と改称して一般郡民にも診療を開放した[1][6]。
セメント事業の形成
九州産業鉄道と産業セメント鉄道
Wikipediaの「産業セメント鉄道」によれば、1917年8月に鎮西軽便鉄道(発起人は麻生太吉)が、飯塚駅から後藤寺駅に至る路線の敷設申請を提出した。1919年2月に免許が下り、6月28日に鎮西軽便鉄道が設立され(取締役に麻生太吉)、9月1日に九州産業鉄道へ改称した[9]。1922年10月5日に太吉が九州産業鉄道の社長に就任し[6]、1933年10月6日には九州産業株式会社(取締役に麻生太吉)と合併して産業セメント鉄道が成立した[9]。
田川工場の操業
田川工場は1934年(昭和9年)に操業を開始した。麻生セメントは、同工場を「当社発祥の地」と位置づけている[11]。Wikipediaは、同年3月16日に産業セメント鉄道がセメント製造を開始したと記す[6]。
二代目社長の就任と戦中・戦後
1934年(昭和9年)1月26日に、太吉の孫の麻生太賀吉が麻生商店の取締役社長に就任し、2月1日には産業セメント鉄道の社長にも就任した[6]。
1941年(昭和16年)5月1日に、麻生商店は麻生鉱業株式会社へ改称した[6]。Wikipediaの「麻生鉱業」は、その事情をこう伝える。ワイヤーロープなどが配給制だった当時、「麻生商店」の名が災いして配給が差し止められた。これをきっかけに改称したという[5]。この経緯は一資料の記述であり、他の資料での確認は今回できなかった。
1954年(昭和29年)10月1日に、麻生鉱業が産業セメント鉄道を吸収合併して麻生産業株式会社となった[6]。
閉山と麻生セメントの分離
1966年(昭和41年)11月4日、麻生産業のセメント事業が分離され、麻生セメント株式会社が発足した[2][6]。
1969年(昭和44年)4月30日に、麻生最後の炭鉱である吉隈鉱業所が閉山した[1][6]。同年6月30日に麻生産業株式会社は解散した[6]。7月1日には飯塚病院が麻生産業から麻生セメントに経営移管された[6]。麻生グループは、昭和40年代の炭鉱閉山という危機を「黒(石炭)から白(セメント)へ」のスローガンで乗り越えたと説明している[1]。
1973年(昭和48年)5月28日に太賀吉が麻生セメント会長に就き、麻生太郎が社長に就任した[2]。6月1日には飯塚市体育館で麻生創業百年記念式が行われた[2]。麻生太郎は、麻生太吉の曽孫にあたる[3]。
深掘り:鉄道の免許から国有化まで、争議の記録
鉄道事業の経過
九州産業鉄道の路線は、1917年の敷設申請から1919年の免許・会社設立へと進んだ。1922年6月1日には金宮鉄道の宮床―金田間を譲り受けた[9]。産業セメント鉄道となったのちの1943年(昭和18年)7月1日に、全線が買収されて国有化された[9]。公式年表も、同年7月31日に鉄道部門を国鉄に譲渡したと記しており、日付は資料間で異なる[9]。以後の同社は、セメント製造を中心とする会社として1954年の麻生産業への合併に至る[6][9]。
朝鮮人坑夫の争議をめぐる記述
前川氏の筑豊炭鉱ページは、麻生炭坑で朝鮮人坑夫約90余名が、暴力による酷使・虐待の厳禁、坑内労働10時間法の履行、賃金3割の値上げなど16項目余の歎願書を提出したという争議状況の記録を引いている[10]。同ページは、永末十四雄氏が『筑豊賛歌』(1977年)で、この争議の要求項目を人権抑圧への抗議と評したことも紹介する[10]。ただし、確認できたのは同ページの抜粋にとどまる。争議の年月、経過、結果、原記録の出所は、本稿では確認できていないため不明とする。
公式沿革の読み方
麻生グループの沿革は、閉山、売却、セメントへの転換を「存亡の危機を乗り越えた」という物語で整理している[1]。他方で、創業の起点、鉄道の成立日など、資料ごとに説明の置き方や日付が異なる箇所もある。本稿は、そうした相違を併記するにとどめた。事実としての設立年や閉山年は、公式年表・Wikipedia・辞典類で確認できた範囲に限っている。
年表
- 1872年(明治5年)麻生太吉が目尾御用山で石炭採掘に着手(公式沿革。年譜では共同での採掘)。[1]
- 1884年(明治17年)鯰田で近代的炭鉱の開発に着手(世界大百科事典)。[4]
- 1889年(明治22年)4月鯰田炭坑を三菱社へ譲渡。[1]
- 1894年(明治27年)5月1日忠隈炭坑を住友家へ譲渡。[1]
- 1907年(明治40年)7月藤棚・本洞の両炭坑を三井鉱山へ譲渡。[3]
- 1909年(明治42年)吉隈を開坑(世界大百科事典)。[4]
- 1918年(大正7年)6月1日株式会社麻生商店を設立し、麻生太吉が社長に就任。[6]
- 1922年(大正11年)10月5日麻生太吉が九州産業鉄道の社長に就任。[6]
- 1933年(昭和8年)10月6日九州産業鉄道が九州産業と合併し、産業セメント鉄道が成立(Wikipediaの記述)。[9]
- 1934年(昭和9年)1月26日麻生太賀吉が麻生商店の取締役社長に就任。[6]
- 1934年(昭和9年)田川工場が操業を開始。[11]
- 1941年(昭和16年)5月1日麻生商店が麻生鉱業株式会社に改称。[6]
- 1954年(昭和29年)10月1日麻生鉱業が産業セメント鉄道を吸収合併し、麻生産業株式会社となる。[6]
- 1966年(昭和41年)11月4日麻生産業のセメント事業が分離され、麻生セメント株式会社が発足。[6]
- 1969年(昭和44年)4月30日吉隈鉱業所が閉山(最後の炭鉱)。[1]
- 1969年(昭和44年)6月30日麻生産業株式会社が解散。[6]
関連する人物・一族・組織
よくある質問
- 麻生の事業は何から始まったのか。
- 麻生グループの公式沿革は、1872年(明治5年)に麻生太吉が飯塚市目尾の目尾御用山で石炭採掘に着手したことを起点とする[1][2]。ただし太吉本人は当時15歳である。Wikipediaの年譜は共同での採掘と記し、『20世紀日本人名事典』は父の賀郎と共に採掘に従事したと記す[3][4]。
- 麻生商店・麻生鉱業・麻生産業・麻生セメントはどういう関係か。
- 株式会社麻生商店は1918年に設立され、1941年に麻生鉱業へ改称した[6]。1954年10月に産業セメント鉄道と合併して麻生産業となり[5][6]、1966年11月に麻生産業のセメント事業が麻生セメントとして分離独立した[2][6]。麻生産業は1969年6月30日に解散した[6]。
- 麻生はなぜセメントに転じたのか。
- 麻生グループの公式の説明では、石炭に代わる中核事業として、太賀吉がセメント業に力を入れたとされる。背景として、炭鉱業が外国産との価格競争に敗れ、多くの国内炭鉱が閉山したことを挙げる[1]。昭和40年代の炭鉱閉山という危機を「黒(石炭)から白(セメント)へ」で乗り越えたとも説明している[1]。これらは企業側の説明であり、転換の意図を示す当時の内部記録は本稿では確認していない。